祝祭淫獄リミットゼロ 序

卵から孵りたての幼虫―――怪獣の女王モスラが最初に感じ、目にしたものは微かに残る硝煙と抉れた地面、そして熱の残滓だった。
本来なら孵化した自身を出迎えてくれる者―――それも古くから自分を知る者が少なからず居たはずなのに、その気配を感じられずに困惑していた。

(王は何処へ…?)

かつてループ前の世界―――ギドラと交戦した際に、ゴジラと交わした約束―――『貴方とはきっとどこかで逢える』。それを胸にモスラは今まで生きてきた。
そんなかけがえのない存在との邂逅が突如として奪われた事で、姿こそ幼い彼女の心は未だに不安で押しつぶされそうになっていた。

「王……何処? 何処にいるのです……?」

か細い声で呟き、モスラはゆっくりと名も知れぬ地面を見渡す。返事がないとわかっていてもそうせざるを得なかった。
どうして王は傍にいないの? その答えは、モスラの脳内で既に導き出されていた。

(彼の身に何かあった……?)

生まれたばかりではあるが、モスラの記憶はとても優れており、なおかつ自身が死んでも“生まれ変わる”ことで長い付き合いのあるゴジラとの記憶も継承されている。
だからこそ理解できた。この場所に残る“熱”は、戦いの後のものではない。
だが―――本当は、もっと前から気づいていた。孵化の直前、殻の内側で意識が明瞭になり始めた頃から、
外の世界には“王の気配”が確かにあった。温かく重く、力強い―――怪獣王の鼓動。だが、その気配はすぐに歪んだ。

(……おかしい……王が、こんなふうに……苦しむはず、ないのに……)

殻の中で震えながら、ただ感じ取るしかなかった。
『外に出れば殺される』―――そんな本能的な危機感だけは、幾重もの記憶を継いだ身体に刻まれていたから。
それでも、王の気配は確かにそこにあった。
無機質な悪意に激しく揺さぶられ、押さえつけられ、やがて―――弱く細く薄く……じわじわと途切れていく。

(どうしたの? 王はどうして苦しんでるの…?)

何日も、何夜も、殻の中でそんな疑問を抱きつつ、じっと“第三者”の気配が開けるのを感じ続けただけの時間。
幼虫である彼女には、それ以上の行動がどうしても取れなかった。
そして今日、意を決してようやく孵化した時には―――ゴジラは、もうそこにいなかった。

(……焼かれたわけでも、闘争の余韻でもない。これは…“押さえつけられた者”の熱……)

幼い身体が震えた。
王が戦えば地形が変わり、怒れば海が鳴く。
ならば、彼が“無力化された”時だけに残る痕跡も、当然知っている。それは、決してあってはならない種類の静けさだった。

「王……どうして、返事をくれないの……?」

呼びかけても空気は揺れず、匂いだけが僅かに彼を示した。しかしその“匂い”は、いつもの王の持つ重厚な波動と違い、弱々しくどこか“奪われた者”のにおいがする。

(……誰が、こんな……?王に触れられる存在なんて……)

答えは、ひとつしかない。
大気の奥深くに、微かに沈む“歪んだ雷(いかづち)”の気配。
地球上のどこにも属さず、どの生物の波動とも違う、忌まわしい三重の脈動。

(―――ギドラ)

名前を思い浮かべるだけで、記憶の奥底に残っていた古傷が疼く。
“偽りの王”。“破滅の使徒”。そして―――『王(ゴジラ)を唯一、跪かせうる存在』。
震えが走った。だが恐怖ではない。

(……王を、取り返さなきゃ)

モスラの幼い足がよろめきながらも一歩を踏み出すものの、すぐに悟る。
この小さな身体では到底追いつけない。
今のままでは、王の元へ辿り着けない。
焦燥と不安、そしてほんの僅かな怒りが、繭の奥に残っていた“本来の姿”を呼び覚ます。

(王を、救う……。そのためなら…今、羽化する……!)

天を仰ぐように身体をしならせた瞬間、周囲の空気が震えた。
陽光のごとく、まばゆい光が辺り一面にほとばしる。幼虫の殻が弾け、内側から莫大なエネルギーが溢れ出す。

怪獣の女王―――モスラ、成虫態。

大きく展開した翅が、王の残した微かな痕跡を捉える。それはまるで、遠く深い海の底から呼ぶような、痛ましいほどにか細い信号だった。

(待っていて、ゴジラ…。必ず、貴方を見つける……!)

そしてモスラは、力強く羽ばたいた。
大海の向こう―――“偽りの王”の気配へと続く、恐ろしく冷たい風の道へ。

 

 

嵐の只中に近づくほど、雨は刃のように降り注ぎ、モスラの肌を叩く。
それでも、彼女の飛行は一切ぶれなかった。

(……近い。奴の気配が……)

羽が震えるたび、散る光の粒子が雨に溶けた。
そこには“王との絆”が確かに宿っていたが、今はそれすら警戒の色を帯びる。

胸奥に刻まれた戒律―――『王を傷付けてはならない』。

それは、彼女がこの世に生を受けた意味そのものであり、生きる理由でもあった。
だがその王を“奪った”何かが、この嵐の中心で待ち構えている。
そこに近付けば、一際激しい雷鳴が世界を裂いた。
刹那、空気そのものが怯えるように震えた。
あれは、ただの雷ではない。彼が“そこにいる”と告げる、威圧の咆哮。

「っ……!」

耳を焼くような轟音。眼を刺す稲妻。まるで「来るな」と言わんばかりに嵐が牙を剥く。
だが、その更に奥から―――もっと濃く、もっと邪悪な“悪意”が、確かにこちらを見ていた。
暗雲の裂け目を仰いだ瞬間。

―――“そいつ”は、そこにいた。

三つ首の異形のような影でもなく、いまは人の姿をとっている。しかし、その存在感は空間そのものを歪めていた。
嵐の真っ只中だというのに―――彼の角や髪はおろか、神父服は一滴たりとも濡れていない。
雨粒が触れようとすれば音もなく蒸発し、頻りに迸る雷は彼の背後に集まる度、祝福にも呪いにも似た光輪を形作っていた。

(やはり貴様か……)

その姿は、神々しさと禍々しさを同時に孕んだ“禁忌の聖像”。それを改めて視認した直後にモスラの羽は無意識に強張り、体温が一瞬にして奪われる。

(……ギドラ……!!)

モスラとの目線が合った瞬間、彼はゆっくりと口角を上げた。常人の仕草ひとつすら、嵐より冷たい悪意を含んでいる。

「久しぶりだな―――女王サマ」

その声は雷鳴より遥かに柔らかいのに、降り注がれる豪雨より残酷だった。

「あのまま卵の中で隠れていれば良かったものを……」

淡々と、しかし確実に心臓を握り潰すような声音。
次の瞬間風が止まり、先程まで雷を伴って吹き荒んでいた嵐ですら、彼に道を譲るように沈黙した。

「まぁ良い」

ギドラは肩をすくめ、雨の中でも一切濡れない神父服の裾を揺らした。
その無造作な仕草すら嘲笑を孕んでいる。

「わざわざ殻の庇護を拒んですぐに羽化した……それは確かに貴殿自身の意志だ。その覚悟と執念には、相応の敬意は払おう」
「……御託は、いらない」

ギドラの言葉が終わらないうちに、モスラは一切の逡巡なく言い放った。
彼女の濡れた頬を滑る雨粒が、怒りで熱を帯びている。

「王はどこにいる?」

その声は、嵐に打たれながらも凛としていた。

「ゴジラは……どこ? 貴方なら、知っているでしょう?」
「……ほう?」

ギドラの眉がわずかに動いた。
意外というより、期待以上の反応を見せられた時のような、冷たい愉悦だ。
次の瞬間―――ギドラの肩にかかるストラが、まるで生き物のように脈打ち始めた。

「―――出ろ」

ギドラの一言でパチッ、と大気が跳ねた。
雷光に裂かれた暗闇から、左右の首―――ニとサンが“生まれる”ように形成される。
二つの首がモスラに向けて嗤った。

「キヒヒッ、答えてやっても良いがな……」

ニが二股の舌を出し、辺りの雨粒をいやらしく舐めとるような仕草をする。

「生憎、アンタが知ってる“王”とは―――もう別物になってるぜ?」
「そうそう、」

続いてサンは子供のように無邪気に、しかし悪意しかない声音で続けた。

「今じゃすっかりボクの“分身”と仲良しこよし、メカゴジラと一緒に…ね。王サマはず~~っと“いい子”にしてるよ」
「……ッ!」

胸の奥が焼けるような痛みに締め付けられ、モスラの羽が震えた。
怒りか、恐怖か、それとも絶望か―――判断できない。ただ、ギドラたちの言葉が、心を深く抉っていく。
そこから畳み掛けるように、ニとサンはさらに追い打ちをかけるように笑った。

「で?」
「それでも逢いたいの?」

まるで―――“壊れた王を見て泣き崩れる姿を見たい”とでも言わんばかりの声音。
その挑発、侮蔑、支配の匂いは、吹き荒ぶ嵐より濃かった。
それでもモスラの答えは、ただ一つ。

「勿論です。」

モスラの返答は迷いなく―――刃のように鋭かった。

「へえ?」

ニが面白そうに首を傾ける中で、雨風すら気に留めず、モスラは毅然と告げた。

「私はゴジラと約束をした。ずっと傍にいると……彼がどんな状況でも必ず救うと。 その誓いを果たすまで―――何日も、何年かかっても構わない」

胸に当てた拳は細いのに、そこには“揺らがぬ信念”が宿っていた。
ギドラの片方の眉がわずかに上がる傍ら、二首の方も一瞬だけお互いを見ると、忽ち六つの眼光がモスラを射抜く。

「……ふぅん?」
「随分とお熱いこったなァ」

ニとサンが嗤い、ギドラ本体はぱちぱちと乾いた拍手を送る。
褒めているのか、断罪しているのか―――その境界は曖昧だ。

「女王サマ…健気なご高説は結構だがな……」

ギドラの声音がふっと低くなる。

「その想いが“本当に”彼奴に届くと思っているのか?」

答えは分かっている。否―――だ。
だがモスラは視線を逸らさず、真っ直ぐギドラを睨み返した。

「それはお前が決めることじゃない―――私が……“私(モスラ)”が決める」

毅然と告げたその瞬間、ギドラの目に冷えきった色が宿る。

「後悔するなよ?」
「……どういう意味?」

モスラが眉をひそめるが、ギドラは応じず背中の巨大な翼を広げた。
同時に、左右の首の口内に光が満ちる。まるで雷そのものを呑み込み、咀嚼し、力に変換しているような圧。
空が震えた。
嵐すら怯えて後退するほどの“天の怒り”。

「……っ!」

モスラが反射的に羽ばたいたその瞬間―――ギドラは雷光とともに目前へ迫り、彼女の細い首を容赦なく掴み上げた。

「あぐッ……!?」
「弟らが言ったことを理解できなかったか?」

ギドラの声は、支配者のものだった。

「彼奴はとうに我らの下に堕ちた。これは―――もう決定事項だ」

モスラは全力で抵抗する。
だがギドラの握力は石柱より硬く、振り解こうにもびくともしない。

「な……何を……ッ!」
「なに、ほんの余興だ」

ギドラが微笑む。
その笑みは“慈悲の欠片もない”とモスラは直感した。

(余興……?)

その瞬間だった。
モスラの背の両翼―――彼の“眼”に相当する紋様へと、ニ首の鋭い牙が突き刺さった。