粉塵が静かに降り積もる。
戦場に漂う熱気がようやく落ち着きを見せたその中で、ゴジラは深く、深く息を吐いた。
「……はぁー……」
その溜息はただの疲労ではない。
長く、あまりにも長かった監禁の日々――あの空虚をかき消すように、燻るように重かった。
青白い燐光もゆっくりと収まり、ようやく“戦い”から“日常”へと意識を降ろしたその時。
眼前で、ぱたり、と影が揺れた。
「……ぁ……ッ」
空から降りてきたモスラの身体が、着地と同時にふらりと揺れ、そのまま地面に崩れ落ちた。
裂けた翅。あちこち焦げた四肢。腹部にも赤黒く痛ましい痕。
ギドラに裂かれ、メカゴジラに甚振られ、それでも彼のために飛んできた身体は、もはや限界に近かった。
「モスラ!」
ゴジラは反射的に駆け寄り、崩れ落ちたモスラの身体を両腕で受け止めた。
力の加減を少しでも誤れば折れてしまいそうなほど、その体は弱々しい。
しかも呼吸はか細く、今にも途切れてしまいそうだった。
「モスラ……っ……!」
一方でモスラの方は―――ぼんやりとした意識の中で、その声の主が誰かをようやく理解する。
それだけで十分だった。彼の声が届くだけで、胸の奥が満たされていく。
その内にモスラは“よくぞご無事で”とでも言うように、ゴジラの胸へそっと頭を擦り寄せた。
心臓の鼓動。震える体温。そのすべてが――まだ彼女が生きていることを伝えてくれる。
「ッ……」
ゴジラの瞳に、じんわりと涙がにじんだ。
悲しみではない。安堵と嬉しさが胸を満たしているのに、熱い雫だけは勝手にあふれてくる。
“王”として生まれてから、人前で泣かないと決めていたはずなのに―――こらえきれず、ぽたりと涙が零れ落ちた。
「……すまな……っ!」
謝ろうとした瞬間、モスラの細い腕が彼の背に回り、そっと抱き寄せる。
「…………もう、いいのです」
その声はか細いながら、ひどく優しかった。
“泣かないで”ではなく、“泣きたいなら泣いていいの”と言ってくれているような、穏やかで柔らかな声だった。
「……っ……!!」
その言葉と温もりは、彼の中にある最後の砦をあっけなく崩した。
途端に堰を切った涙は止まらず、抑え込んできた感情が一気に溢れ出す。
(……そうか)
けれど今だけは――“泣いてもいい”のだと、自然に思えた。
しかし次の瞬間。
「……おっ……?」
不意に膝からがくり、と力が抜け、ゴジラの身体が前へと傾く。
支えようとした腕も追いつかず、その鍛えられた肉体はそのまま崩れ落ちた。
「……っ!」
突然近づいた気配に、モスラは目を見開いて思わず息を呑む。
彼の重みを受け止める形で胸元に抱き込まれ、互いの額と額が触れるほどの距離に引き寄せられた。
「王……? どうなさったのです?」
囁くような声に問いかけられ、ゴジラは涙を拭う間もなく苦笑まじりに息を吐いた。
「……どうやら、久々に暴れすぎたらしい」
監禁から解放された安堵。モスラの無残な姿を見て爆発した怒り。
そのすべての代償が、今になって押し寄せてきていた。
それでも――腕の中で彼女が確かに息をしている。その温もりがある。
それだけで、既に十分だった。
モスラが、弱く微笑む。
「……間に……合って、よかった……」
「――ああ。其方のおかげだ。随分独りにさせてしまったな」
“独り”。
自身の漏らしたその言葉が、ゴジラの胸に積もっていた記憶を静かに呼び起こした。
メカゴジラに囚われていた日々。
あれは彼にとって途方もなく長く、耐え難い時間だった。
モスラの卵の前で受けた屈辱。連れ去られた先で刻まれた淫紋――それは、彼から“王としての尊厳”を奪うための印だった。
その覆しようがない支配を、ギドラの前で強く思い知らされ続けた。
事が終わったあとに残ったのは、身体の奥に焼き付いた鈍い疼きとどうしようもない虚無感だけ。
冷えた床に伏したまま、疲労はおろか乱れた呼吸すら整えられなかった。
それでも、ただひとつだけ祈り続けたものがある。
――孵化したのに、姿を見られないまま置いてきてしまったモスラの安否。
無事に顔を出せただろうか。
誰かに守られ、どこかで生き延びているだろうか。
自分のことを忘れてしまってもいい。とにかく、生きていてほしい。
その願いだけが、囚われの身でも彼をかろうじて支えていた。
寝ても醒めても、爛れた悪夢の中にいるような毎日の中、今日だけは違った。
夜も更けて来た頃、扉の向こうから自然のものとは異なる地鳴りが走り、微かな硝煙の匂いが流れ込んだ。
そこから続いて聞こえてきたのは、メカゴジラが“誰か”へ捲し立てる怒号と罵声。
(何だ…? 外で何が起きている?)
そして聞こえた、あの言葉。
「その瞬間は――中のアイツに聞こえるくらい、思う存分“歌え”よ?」
――歌。
その一言で、ゴジラは確信した。モスラがここに来ている、と。
だが同時に扉越しでもわかるほど、その気配が急速に薄れていくのを感じ取った。
思いびとの名を何度も反芻する中、忘れていたはずの感情が胸に満ちていく。
戸惑い。安堵。そして――彼女を傷つけられた怒り。
静かに、しかし確実に、彼の中で何かが目を覚まし始めていた。
(やめろ……)
湧き上がる鼓動に交じって、遺伝子に刻み込まれた王としての誇りが声となり、次々と己の脳内で反響する。
“王であるならば戦え”。
“彼女を守らなければ”。
“戦い尽くして死ねるなら本望だ”と。
ゴジラは荒い息を吐き、ふと自分の身体に目を落とした。
囚われの間、ただ掛けられていた薄い布が一枚。外へ出るなら、せめてこれくらいは身につけておくべきだ。
彼はその布を手に取り、腰へしゅるりと素早く巻き付ける。
決意を込めるが如く結び目を固く締めた瞬間、先程よりも視界の奥にある怒りが鮮明になった。
「―――ッ!!」
立ち上がるのは、日ごろからギドラたちに命令されるよりもひどく容易かった。
力強く踏みしめた一歩が床を砕き、ひび割れた凹凸を生み出す。
強く握られた拳には青い燐光が宿り、いつ爆ぜてもおかしくないほど震えている。
(これ以上……モスラを傷つけることは赦さんッ!!)
言葉にならない怒りの咆哮が一際強烈な爆発を起こし、その衝撃波が小屋の壁を跡形もなく吹き飛ばした瞬間から―――怪獣王による“護るべきものを護り、取り戻す”ための闘いが始まった。
一頻り回想を終え、ゴジラはモスラの背中にそっと手を添えると静かに立ち上がる。
「少し場所を変えよう。ここでは些か煙が立ちすぎる。……水辺まで行くぞ」
「……はい」
モスラは力なく微笑み、そのままゴジラの胸に頭を預ける。
吹き荒ぶ風の中で彼女を抱きかかえ、ゆっくりと古い教会の反対側――静かな入江へと向かう。
水面が絶え間なく幾重もの白銀を湛えて揺れる入り江の奥。
岩肌を縫うように、細い滝から水がしとしとと流れ落ちていた。ゴジラはその場所まで歩を進め、モスラを静かに下ろした。
島の奥から流れ込む沢の水は、夜気でひやりと冷えていながらも無臭で澄み切っており、彼女から流れる血と煤を洗い流すには、十分すぎるほどだった。
ゴジラは両手でその水をひと掬いすると、モスラの傷ついた箇所を少しずつ洗い流してゆく。
「んっ……!」
冷水が傷口に沁みたことでモスラは痛みで一瞬呻くが、ゴジラは彼女の身体を支え、そのまま傷の手当てをする。
「痛むか?」
「っ……少し……」
「……よく頑張ったな」
そう言いつつ、ゴジラはモスラの身体を労わるように淡水で優しく洗い流す。
擦り傷や翅の裂傷は勿論のこと、数えきれないほどメカゴジラからの“攻撃”を受けた痕。
余りにも彼女の姿は痛ましすぎた。
それでも――彼女は生きていて、こうして手が届く場所にいる。それだけが救いだった。
そんな中、モスラは力なく座りながらも、彼の手元をじっと見つめていた。
「どうした?」
「……すみません。王に比べたら、私は本当に非力で……」
ゴジラは一旦手当てを中断し、その対の琥珀でモスラを見つめ返す。
「なぜそう思う?」
「私は……王をお守りすると誓ったのに……判断を誤って貴方を虜囚の身に…! その挙げ句、自分の傷すら治せない始末で……」
「……それは違うぞ、モスラよ」
語尾の部分でゴジラは自分の下腹部を覆う布の裾の一部を引き裂き、彼女の流血している箇所をぽんぽんと軽く叩きつつ、止血を繰り返しながら続けた。
「え?」
「其方が居てくれたからこそ、儂はメカゴジラに勝てたのだ。其方がいなければ、儂は彼奴に押し負けていて未だ囚われていたままだったかもしれん」
「しかし……私は……」
“王”の役に立てた喜びよりも、自分の不甲斐なさが胸を刺す。
そんなモスラに、ゴジラはふ、と穏やかに微笑み頰へ手を添えた。
「メカゴジラはおろか、ギドラすらも出し抜いた其方が非力なわけなどあるものか。
――其方は儂の誇りだ」
「……ッ!」
胸の奥から熱がこみ上げる。
潤んだ涙腺が視界を揺らし、モスラは頰に触れたゴジラの手へ、そっと己の手を重ねた。
「ありがとうございます……私も、王のお傍にいられてよかった…!
それに、あなたの気配…ほとんど感じ取れなくて……。でも、それでも、生きているって――信じてました……!」
「儂もだ。……あの牢に囚われていた間、ずっと其方のことを考えていた」
水音の合間に、静かな本音が落ちる。
二人以外の音が何もなく、ただ静かな海と夜だけが包む正真正銘の神聖な空間で、ゴジラとモスラの抱く想いはただひとつだった。
「……王よ」
「モスラ…………」
同時に名を呼び合い、視線が絡み合う。
モスラはそっと目を閉じれば、ゴジラもそれに応じるように彼女を抱擁し、唇を塞ごうとした――が、それを遮るように、遠くの空から遠雷の如し轟音が響いた。
「……あれ……?」
「何だ?」
宛らこの世の終わりを告げるような“咆哮”の如し響きに二人が我に返ると、モスラはゴジラの肩越しに見えるものを凝視し始めた。
空が薄い群青から灰色へと変わり始め、夜明けを告げようとしている水平線の先に、一際大きい黒い雲が渦巻いている。
否、よく見るとただの雲ではなく―――嵐のように荒れ狂う“何か”のその下で、無数の影が蠢いていた。
(……タイタンたち……? しかもあの数は……!)
理解が追いついた瞬間、モスラは言葉を失った。
ギドラはすでに飛翔できるほど回復しており、そして今――“王”としての咆哮、アルファコールが放たれたのだ。
それに応じて世界各地のタイタンたちが呼び集められ、黄金の嵐のもとへと歩を進めている。
(まさか…奴に刺した毒が、もう解けたの……!?)
ゴジラもまた、水平線から訪れる暗雲もとい宿敵の気配に視線を細める。
「あれは……相当怒っているな。其方の妨害が、よほど堪えたと見える」
ぽつりと呟いた途端、黒雲の中心で雷のような三つの光が瞬いた。
偽りの王――ギドラは、いつの間にか完全復活を果たしていた。
今までの冷徹さが一転して怒り狂い、嵐を巻き込みながら島へと直進する。
本来なら数日はかかる距離。それを暴風の一撃で、無理矢理縮めようとしていた。
「アイツ…あのクソ虫がァァ……! 今度こそ翔べなくしてやる!!」
「そーだそーだ! メカゴジラは全然だったし、僕達に泥を塗った分、まとめて叩き潰してやるもんね!」
ニとサンの口汚い罵声を、ギドラはほとんど意に介さない。
ただ無言のまま、憤怒に満ちた眼光だけを島へ向けている。
(……それだけでは生温いぞ、弟たちよ。
あの下等な虫も、あの王も――二度と我から逃れられぬように四肢を引き千切り、生きていることを後悔するまで嬲り尽くしてやる……!!)
その怨嗟は落雷へと変換され、荒れ狂う海面を叩き割った。
距離を縮める度にギドラの怒りは、モスラに注入された毒をも容易く上塗りするほど、なお増幅し続けていた。

